◎ここに生涯を掛けたい。(親先生)


昭和56年3月7日 朝の御理解               御理解 第65節                      「日柄方位は観るに及ばぬ普請作事は、使い勝手のよいのが吉い家相ぢゃ吉い家相ぢゃ吉い日柄と云ふは、空に雲のないほんぞら温い自分に都合のよい日が吉い日柄ぢゃ、如何に暦を見て天赦日ぢゃと云うても、雨風が強うては今日は今日は不祥のお天気ぢゃと云ふではないか、日のお照らしなさる日に吉い凶いはないと思へ。」 


 お道の信心をさせて頂く者が、この御教え一つだけでも、直にそうだなあと分り信じさせて頂けたら、金光教の信心がいかに前代未聞の宗教であるかという事が分ります。問題はそれを信じて疑わず、それをそうだと自分のものにするという事ですね。あらゆる宗教がいうなら迷信は付きもののような感じです。この迷信打破という。例えばここの御教えに表われてくる、日柄方位とかといったような事でも、それを看病にさえしておるといったような宗教がある。いうならばもう過去の宗教に於ては、みんないうならば迷信が付きものです。
 だからこの御教だけでも本当にそうだと自分のものにし分からして頂いたら、金光教の信心がいかにすばらしい、例えば日柄方位を教祖が云われるように、それを信じて実行したら、困った事がおきた、難儀な事になったといったようなね、嘘の御教えであったらいざ知らず、だけれどもこれを信じて「そう」と頂いたら、もうたしかに今まで世間狭う来ておった事。又宗教のすべてが、その迷信が付きものであるというような事がわかります。
 どうしても宗教というものは独善的になります。例えば仏教で云うなら唯我独尊的なものになったり、キリスト教あたりで云うたら、もうキリスト教だけにしかない、他のものは全部まあ邪教・悪魔だというふうに表現致します。
 先日神愛会の日に丁度佐賀の伊万里の吉富さんが参拝してみえて、その前の日お届けがあってたんですけれども、今度長崎でローマ法皇がみえた時に、まあパーティーのような事があった。まあ最後の晩餐というわけじぁないけれども、お別れの晩餐会があった。それは勿論キリスト関係の方とまあ有名な長崎のまあ要員の方達だったと思うんですけれども、それと同じにの夕食会をするから、そん時の食器が全部源衛門が提供しておられたそうです。
 ですからその食器を使ってそん時のお料理と同じそのままを再現しようという、思い立ちが長崎であって、それに吉富さんも招ばれられてからのお話を、丁度神愛会が終った所でしたから、もう本当に合楽の信心のすばらしいという事は、こうですというて、まあ今度だから今度ゆっくり時間をかけて、今度私が聞いてまいりましたお話を聞いてもろうて、合楽の信心のすばらしい事を皆さんにも信者さんにも、聞いて頂くというふうに云うておられましたが。
 ローマ法皇がいわゆるキリスト教のまあ云うならば、何んというですか、それをもう帰依し信じきっておられる信者ばかりの、云うなら幹部ばかりを集めて話された事の中に、この御利益をいう宗教は全部悪魔だと表現されたそうですね。
 そしてキリスト教のいわば、特にカトリックのここがすばらしいんだという話をなさった、そのすべてがね、合楽の親先生の教えとは絶対もういうなら、成る程合楽の信心が人間が人間らしゅう助かっていく、すばらしい宗教であるという事が分りましたというふうに云っておられますが、だからそれを今日の御理解でいうとなら、ローマ法皇がいうておられる事はみんな嘘であり迷信なんです。
 だからどうしてもそのそりぁ、どんなに独善的であってもいいんですよね、本当に助かれば人間が幸せになっていく事の為ならば、そりぁたとえ嘘だっても迷信であっても、それによって助かるならばいいです。ただ金光教の信心というのは、いうならそういう何んというですかね、窮屈な信心もう人間が万物の霊長として、万物を観て道理にあう信心という観点からいうても、教祖がいかにすばらしい事を説いておられるかと、だからすばらしい事を説いておられとも、例えば今日の御理解でも、ほんにそうだと信じなければ駄目なんです。分からなければ。いや金光様の信心すりぁ、日柄やら方位はみらんでよかち云ひなさる、ばってんやっぱ御祝儀や、家を建てる時にぁやっぱ見らなきぁというなら、金光様の信者ぢぁないです。それだけでもなら金光教が、いわゆる世にいう名教と云われる所以と申しませうかね。
 私は今朝から『世界のナンバーワン』という事を頂き、お声を頂き目が覚めた。金光教の信心は確かにもう世界一の名宗教です。名教です。それをねいよいよ成る程と誰でもが合点がいくように、説き明かしてあるのが合楽理念です。
 そして次に頂きます事が『きざな言い方をすればお前は世界一だ』という意味の事を頂いたんです。そりあ皆よく云ひますよね、もう私は日本一の幸せ者と思いますと、私は世界一番の幸せもんと思います。自分が云うたり・思うたりするじぁない。神様が合楽の大坪総一郎は世界一だと云うて下さるんです。それはね、力が世界一とか、お徳が力とかいうのじぁありません。人間が人間らしゅう助かっていくという事の手立てを、充分心得ておる者としての世界一です。もう私がぢぁないです。同時に合楽に御縁を頂いて私の云う事に傾倒し、帰依して居られる方達の事なんです。
 合楽理念はだから本当にもう何というでしょうかね、その人間が人間らしゅう生きながら、もう絶対自分が私しゃ日本一の幸せ者と思ひますちゅう、自分じゃなくて神様が云うて下さり、認めて下さる程しの内容を持っておるのが合楽理念です。皆さんだからそれを信じなければ駄目です。信じる所からです合楽で頂く御理解を、一つ一つ血にしなければ・肉にしなければ、おられんという昨日の御理解じぁないけれども、粗末にぁせんけれども、いうならばそれをいよいよ一心に、大切にしようという事になってこないです。
 だから神様が目も明けなさらん、口も明けなさらんといったような事なんだ。うすらぱぁと分かっとる、うすらぱぁと行じとるだけだから。ねそれを例えば昨日の御理解からいうと、親不孝しようという者はない。親は大切にせんならんと思うとるだけであってなら、そこに一心を一心をもって親を大切にしようと、念願し実行する者は少ない。そこにいうならば神様がそれに応えるように、おかげを下さるのです。というのが昨日の御理解でしたよね。
 今日の御理解はですね。合楽の信心が本当に世界一の宗教であると、それをいうならば頂いてマスターして私がおかげを受けておるのは、いうならば世界一の、いわゆる世界のナンバーワンだと、きざな云ひ方すればという事でした。
 私がなら世界一におかげを頂いておるという事ではないけれども、しかもこれは昨日の四時の御祈念を頂き終った時に、頂いたのですけれどもあの『世界を包み世界をカバーするのが合楽理念だ』と合楽理念の内容は。先達って聞かせて頂いた事ですけれども、教祖のいろいろ今新しい教えやらお言葉があの世界を、世界を包みまわすという言葉を使っておられるそうですね。金光教の信心は世界を包みまわすだけのです。いうならば論理的にも実力の上にも、そういう力を持っておるのが金光教です。それを金光教人が表わしきっていないだけです。
 それをなら合楽理念ではです、今云う信じて聞くならばもう、迷信的な事は全然云わんでしかも人間が人間らしゅう、幸せになっていけれる手立てというかその道をまあ、あきらさまにしていっておるのが合楽理念なんです。
 ですから世界のどこに持っていっても、いうならば世間狭い事をいう宗教とか、迷信的宗教とか、もう自分よがりの宗教しとる人達に、本気で合楽理念を聞いてもらえるとするならば、本当にそういう事人間が幸せになれるならばという事になったら、しかもそれが茨の道を歩くのでもなければ、難行苦行しなければならないという事でもない。それでいて人間が本当に云うならば、簡単です・明瞭です・おかげが確かですというよう、おかげがうけられるならば世界中の人に分かってもらえる内容があるという事です。迷信も云わん、云うならば、大ぼらも吹かん、それでいてなら合楽理念をまじめに人間が幸せになる事の為に、聞こうとするならば、世界のどこに持っていっても通用するという事だと思うです。世界をカバー出来るのは合楽理念しかないです。いうなら金光教の御教え以外にないです。その教祖の御教えがあまりにも単純というか、まあ難しく感じられます。それを例えば合楽ではこんなにも容易うしかも成る程と合点をいかせながら、表現して教えてあるのが合楽理念です。
 ですからねそういうすばらしい合楽理念を日々頂いておるのを、粗末にしちゃ本当に勿体ないです。皆さん世界一の宗教をさせて頂いとる。金光教にも沢山な教会もありぁ、先生も居りぁ、信者も居るけれども、それを本当にじかに教えて頂いとるのは皆さんだけです。いや今日の御理解は難かしかとてもそげなこつは、実行出けんといったような御教えは一回だってないでせうが。一ぺんだってないです。合点のいく事ばっかりです。
 だから本気でやる気で、本気で頂く気になったらそういうおかげが受けられる。合楽理念とは何んぞやと、例えばいうような人があります。合楽理念とはそれこそ世界を包みまわせる世界を、いうならばカバー出けれる寒天危地といわれる、いうならばこの地球上の総人間氏子をです。カバーし助け得れる、寒天危地といわれるのをです。喜びの天喜びの地、歓天喜地にし得るのは合楽理念をもってするより他にない。それを云うて聞かせて分からせれる内容をもった宗教は、又教えは合楽理念以外にはないという事になるんです。一つ皆さん私が云う事を大きな事のようですけれども、ようと考えてみてごらんなさい確かにそうです。
 ですからね本当に合楽理念に基づくというならば、皆さんが人間か人間らしゅ生きながら、幸せになっていけれるという幸せを皆さんが頂きなさらにぁねぇ、結局いうなら教えが反古になってしまう。もう徹頭徹尾、合楽理念の生き方というものがね、これにしみこんでしまわなきぁいけない。いかに名教だ・世界一だというてもね、ただ自分でまあ私は世界一幸せもんと思いますとか、日本一有難いと思いますとこういうようにね、自分が云うたんじぁつまらん。そんなのがありませうが、それとは意味がちがう。私が世界一というのは神様が人間が人間らしゅう助かっていく事の、手立てを知っている者はそれを実行しておるのは大坪総一郎だと。そういう意味に於ての世界一なんです。
 だからこれがいよいよ広がり、その広げていこうという広げていけれる、又内容を持っておるのが合楽理念という事になる。この辺のとこばようといっちょ考えてごらん、ほんなこてそうです。世界中にすなをに聞こうとするなら、頂こうとするならば、ほんに成る程そうですねと合点のいかせれる内容を持っておる。そこには迷信もなからなければ、独善的なものでもない。まあ例えていうならば、あれは飲んじぁならん、これは食べてはならんというて、というてそこに幸せになる為には、茨の道を歩かんならんといったようなものではない。この世に極楽を感じながら、あの世へ続く極楽であり、合楽世界に通ずる生き方。そういう手立て、そういう道を私は合楽理念による手立てであり道であるというふうに思います。
 だからね皆さんがただお取次頂いて、お願いしておかげを頂いております事実。けどもそれだけで、いうならば合楽に御縁を頂いておるというだけではあまりにも勿体ない。実感として確かに世界一の宗教であり、世界一の教えを頂いておるんだ、しかも人間がその気になれば、誰でも実行が出来れる、又おかげが頂けれる教えである事を、皆さんが肝に銘じて合楽理念の実験実証者にならなければならんという事です。
 この八十五節のこの一節だけでももう世界の、いわゆる人間が助かっていくという意味においてですよね。いうならば過去の宗教がいうてきた宗教のもうすべてが、いうならば迷信が付きものです。金光教の信心には迷信は特に合楽ではそれをあの、皆さんが御承知のとおりである。しかも難行苦行というのは過去の宗教には付きものだったけれども、合楽ではそうではない、もう家業の行一本。心行一本。心行と家業の行とは繋がっておると思うですね。一つにいうてもいいですよ。家業をさして頂きながら、心行が貫かれておったり、家業の行であり心行なのですから。それにやはり徹底していく事であります。でそれがなら難しい事ではない。問題は本気で一心にという心が、今日持っておけば誰でもが頂ける教えであり宗教であるという事。
 今日私は聞いて頂いたのをね、まあ〃きざな表現〃と思います。けれどもきざでも本当だという事です。大ざっぱに云うて合楽の信心がどの位すばらしいものかという事を、もっともっと皆さんがお分かりにならんとです。そのすばらしいものを頂こうという意欲が生まれません。ただ聞いておるだけ、又人がおかげ頂くのを見ておるだけではつまらんでせう。
 今日皆さんに聞いて頂いた事を、本気で一つ皆さんに分かって頂く事の為に、生涯をかけたいと私は思います。どうぞ